和魂(一霊四魂)に出会うまでの桝田良一は、和魂カウンセラー桝田良一ページにまとめました。

1.物ごころがつく頃まで
2.保育園の頃
3.小学生の頃
1)反応の無い子
2)数カ月に1度貢物が届く
3)学校給食が私を救った
4)学校には休まずに通う
5)猫が友達
6)皆から一目おかれる小学生
7)死を覚悟した小学生
8)小学6年生~新聞配達を始める
9)マラソンはいつも上位

1.物ごころがつく頃まで
 父と母が戸籍上結婚したのは、1964年の3月30日。私が生まれたのは翌月4月29日。
 この誕生日の1か月前に籍を入れている時点で問題があることがわかります。

 父は家に居るときは酒を飲んで寝ている。酒買って来いと喚いているのどちらかでした。
 酒を飲むとケンカをする。家に居ない期間も半年~1年以上あったようです。
 居ない時には、病院に入院状態か、一杯飲み屋で酒を飲んでいるか、警察にご厄介になっていました。
 父のアルコール依存に対して、母は宗教に依存していました

 【父の状態】
 ・家の玄関の窓が割れた状態が数カ月続く お金が無いので段ボールとかで覆われていた。
 ・電話がかかってきて迎えに来てくれと言われた 一杯飲み屋か警察か病院からの電話。
 ・この人(父)を一生面倒をみないといけないと思っていた 働きに行っても長くは続かない。

 このような状態であったので、心が地獄と言うか、生きる意味を見いだせないと言うか、話す相手が居ないと言うか、家族を通じて社会を学ぶ機会を全くありませんでした。

 この状態は、今になって思えば、一霊四魂を学ぶための必要条件だったように思います。詳細は後述。

2.保育園の頃
 私は、母親べったりの子供であったようです。
 兄妹は妹で、3つ下。妹を世話したことはなさそうです。自分が生きるのに必死でした。
 猫といつも一緒だったようです。猫と一緒に寝たりするので、猫語が話せたりします。
 まったく反応が無い子供であったようです。

3.小学生の頃
1)反応の無い子
 自宅では一切反応しなくても良い環境でした。私に声をかける人がいなかったからです。
 しかし、学校の先生が積極的に私に働きかけてくれました。名前を呼んでくれたり、コミュニケーションを取ろうとしてくれたようです。
 小学生1学期(夏休み前までが1学期でした)の通信簿にお返事ができるようになりました。と言う褒め言葉が書かれていました。

 算数はいつも満点は取っていたようです。
 頭は悪くなかった。でも家で勉強は教えてもらって無いと思います。

 着るものも汚かったと思います。
 風呂にいつ入ったのかと言った子供だったと思います。

 父と話した記憶がありません。
 母には愛が欲しいためか駄々っ子のように○○欲しいと玩具とか買わせていたようです。

2)数カ月に1度貢物が届く
 数か月に1回段ボールが数箱届く家でした。中身はお米や服やお金などです。
 送ってくるのは父親方の兄妹から。
 私たちの家では当たり前のことでしたが、一般的におかしな関係でした。

3)学校給食が私を救った
 小学校は大規模校で給食がありました。
 毎日お腹が空いていたので、一番最初に食べてしまいました。
 そして気づきます。恥ずかしい。と・・・
 席を立って自分の食器を片づけるのですが、いつも一番であることが恥ずかしかったのを覚えています。

4)学校には休まずに通う
 基本的に小学校は休まずに通いました。給食があるから。でした。
 ただ、休んだのは、6年生の夏休み明けの工作の宿題ができておらずずる休みを2日しただけ。

5)猫が友達
 家には猫が常時いました。多い時は10匹以上居たはずです。私が猫を拾ってきては餌をやるので、増える一方でした。また、小学生の時には私はお金を持っていませんでしたので、避妊手術と言う方法も知らなかったというのもあります。

 小学3年生かの時に席が隣り合わせた女の子と猫の話で仲良くなったみたいです。
 その時にクラスの皆から囃したてられて、居たたまれなくなった記憶があり、その後、その子と話をしなくなったことを覚えています。

6)皆から一目おかれる小学生
 同級生からは何を考えているのかわからない子に見られていたと思います。
 だって話をしないんですから。で、不良っぽい奴から頭の良い奴からも一目置かれていた感があります。
 また、5年生になった時にクラス対抗で野球チームが作られた時(1学年6クラスありました 1クラス36人ぐらいで男子は18人として半分ぐらいでチームが作られました)には、9人目か10人目の補欠でよく誘われては出場していました。

7)死を覚悟した小学生
 友達と一緒に新築の家を建てる工事現場で遊んでいました。そこで、右足に大けがをしました。
 今も右足ひざ下に2つ鉄筋の針?かが刺さった後の傷が残っています。
 その時、自宅まで血を流しながら、走って家に帰ったのを覚えています。
 距離として300mぐらいでしょうか、家の中で泣いていました。
 家には誰もおらず、血を見てどうしてよいかもわからず、痛いし、怖いし、泣いていました。
 この時、死に近い恐怖を味わったと思います。
 助けて救急車を呼んでくれたのは、家の前のお姉さんでした。
 そのお姉さんの顔をみて安心感で意識を失ったと思います。

 他に意識を失ったことは3回あり、全て血に絡んだ場合です。
 1つは、高校の時に献血の時、看護婦さんに血管が細いので献血に倍時間がかかりますと言われて、意識を失っていますし、又ほかには、社会人になって健康セミナー会場で血管の絵を描かれて、超音波で血管に張り付いているコレステロールが流されますと言う話でも意識を失っています。

8)小学6年生~新聞配達を始める
 家で飼っている猫に餌をあげるべく働きに行ったようです。
 稼いだお金は、猫の食事代、避妊手術などの治療費と私の本代に消えました。
 65件程度の家に新聞を毎朝配達をして、月に1回集金に伺います。この集金が嫌で嫌でたまりませんでした。
 「こんにちは、○○新聞です。集金に来ました。」と言って一件一件お金を頂きに行きます。
 ただ、この仕事を通じて社会と深くつながることができたのだと今思います。
 新聞配達は、高校卒業まで続けました。

9)マラソンはいつも上位
 私の生まれた羽咋市って町は海が近くにあって直線コースで車も走れるぐらいの渚が10kmぐらい続いていました。
 なので、小学校、中学校、高校とマラソンは海で走ったように覚えています。
 小学校1年生の時はマラソンで4位。6年生の時は1位でした。
 私のマラソンの走り方はとても面白くて、折り返し地点まではほぼビリを走ります。そして、後半はラストスパートをかけごぼう抜きするってのに喜びを感じていたようです。